デモンストレーション農場


有史以来、化学肥料も農薬も使ったことのない、放射能の無いきれいな土でできたオーガニック野菜を作っています。

 デモンストレーションとは物事の仕組みを視覚的に見せること

 

小さき花デモンストレーションファームの原点

小さき花デモンストレーションファームはこんな農業もあるよ、こんな生き方もできるよ、少しの土地とお金があればこんなすばらしい夢のような生活もあるよ、そんな生き方・農業を実践し、みんなでいろいろ試行錯誤しながら創っていく、そして必要なものを各自持ち帰る。そんな農場です。そんな人たちが点になって、それがつながり面になって広がっていければなぁと思っています。具体的には誰もが機械がなくても使える技術、途上国でも使える技術などいろんなやり方をやって見てます。こんなので石森くんがやってるなら私もできそうだな、といって農業始める方もいます。まぁ、その点役に立ってるかな。

 

坪沼日記 1992年~1993年

1992年12月21日 晴れ

木の葉っぱもすっかり落ち、冬の日差しが窓から柔らかく入って来るようになってきた。雑木林は良く出来ているものだ。夏は暑い日差しをさえぎってくれ、冬は光を通してくれる。もう二十一日だと言うのに農作業の方はまだまだのこっている。大根、白菜、葉物の冬囲い、ニンジン、カブの土寄せ。早くしないと凍ってしまう。このあいだ久しぶりに友達の結婚式に出席するため東京に行ってきたが、不安のようなものを覚え、大変な所だと思った。今までは、こんなことを思ったことはないのだが・・・。東京には林が無い、緑が無い、水が無い、食べ物が無い・・・。仙台なら一時間も歩けば緑地に行き当たる。しかし東京の都心からだと、僕の心が休まる所まで歩いて何日かかるだろうか。

昔から農村は労働力のプールのようなところだった。かつて僕の曾祖父は廃藩置県で仙台市の坪沼へ、祖父は戦後しばらく坪沼に入って生活してきた。それも豊かな自然があるからだった。社会的な大きな波が生じた時、農村はちゃんと人々を受け止めてきた。ところが今はどうだろう。企業や国の政策によって農村は疲弊し、人々は都会に出てスラムを作る。これは発展途上国でも日本でも一緒だった。インド・カルカッタの「死をまつ人の家」(マザー・テレサの施設)にも常にネパール農村の人が何人かいた。僕はいつも「百姓はいいよ。村に帰って百姓したらいいよ」と言う。すると彼らの顔は和らぐ。横浜の寿町で夜、火をたいているおじさんからおにぎりをすすめられ、食べたことがあった。その時も「田舎に帰らないの」と聞いた。おじさんは「田舎はいいけど帰っても・・・」と言っていた。

一九七三年(昭和四十八年)、僕がペルーから帰って来た時、「日本がこんなことしていたら、いずれしっぺがえしが来る」と言ったらオイルショックになった。そして一九八九年(平成元年)、坪沼のゴルフ場計画についても「今すぐゴルフ場を造るならもうかるかもしれないけど、五年以内に経済がボロボロになるからゴルフ場は出来なくなるんじゃないか」と言った。やがてバブル経済がはじけた。バブルがはじけて不況になったことは、決して悪いことではないと思う。お金とは実体のないものだということが分かったし、みんなが物を捨てたり買いすぎたりしないで大事にするようになったからだ。

僕はまじめに夢を見ている。将来、社会的な大きな波が押し寄せて来た時、物を動かして早く浪費させなければお金はもうけられない、なんてことが出来なくなり、豊かな自然に抱かれてみんなが百姓をしだす日を・・・。そして途上国と言われている国々の人々も企業や国に働かされるのではなく、百姓一人一人が自分たちで自立出来、都市のスラムもなくなり、寿町やカルカッタ、バンコクの人たちも、そして世界中の人たちも目を輝かせて田舎に帰る日を夢見ているのです。

 

石森